木村傘休
鈴木真砂女
1906年、千葉県鴨川に生まれる。
姉が 「俳諧雑誌」に投句していたのを機に句作に入り、大場白水郎に師事、「春蘭」に拠る。1947年から春燈に所属、万太郎の薫陶を受ける。
1955年処女句集『生簀籠』上梓。
1976年刊行の『夕蛍』で第16回俳人協会賞を受賞する。

今月の句
No.18
別るれば二世も他人や青葉木菟
「あなたが乞食をするんだったら、私も一緒に乞食になる」とまで言って昭和4年に最初の夫と結婚した。文鳥夫婦と言われるほど仲が良かった。しかし7年後、いかさま賭博で夫が失踪したため離婚し実家に戻された。それから何の音信もなく歳月だけが過ぎた。昭和45年、娘の可久子が内緒で奔走し、大阪の料亭で再会した。随筆『銀座に生きる』の中で、「文鳥夫婦の思いはひとかけらも残っていなかった。久しぶりに遠い親戚に逢った、それ以上の感情は湧かなかった」とある。ただ「ホー、ホー」と青葉木菟が啼いているのを確かに聞いたのだ。
これまでの鑑賞句
真砂女は老舗旅館「吉田屋」の三姉妹の末っ子として、丙午の明治39年に現在の鴨川市で生まれた。何不自由なく育ち、14歳で日本女子商業学校(現嘉悦学園)に入学、卒業までの4年間寄宿生活を送った。昭和4年得意先回りで毎月泊っていた日本橋雑貨問屋の次男山本幸三郎と大恋愛の末に結婚。だが7年後に夫の突然の失踪で離縁、実家に戻る。その年の暮、姉が肺炎で急逝。翌11年父母の勧めを断れず義兄と望まぬ結婚、吉田屋の女将となるも2年後7歳年下の海軍士官三浦雄次と許されぬ恋に走る。掲句は両陛下全国巡幸で吉田屋に宿泊された翌春の句。春雷が真砂女の波乱の人生の第二章を予感させる。
三月の晴れた空に一朶の白い雲が浮かんでいる。真砂女はその雲が自分自身であるかのように思った。長姉柳(りゅう)の俳句の師匠であった大場白水郎の勧めで昭和11年より「春蘭」の会員となった。春燈へは昭和22年秋に入会。道ならぬ恋、生家の全焼、再建、離婚、そして離郷。無一文の51歳で銀座に小料理屋「卯波」開業。8年余で借金を完済し、漸くにして芽木の空に浮かぶ安堵の雲を見た。12年後富士霊園に建てた自身の墓碑に掲句を刻した。この句集『夕蛍』で第16回俳人協会賞を受賞。
生家の「吉田屋」旅館は昭和40年に閉館して売却され、1キロほど離れた海岸沿いに新しく「鴨川グランドホテル」として建設。代々の墓所は生家近くの浄土真宗福田寺の山腹にあるが、彼岸に両親や姉の墓参に帰郷した真砂女は、久しぶりに隣町天津の誕生寺を訪れたのだろう。境内の古松の大木に吹き寄せる浦風はまだ寒かった。その松風を仰ぎながら詫びる思いで亡き人々を懐旧した。
真砂女90歳。近くを黒潮が流れる安房は温暖な気候から路地ものの花卉栽培が盛んで、菜の花畑も多く点在している。ホテルから太平洋を望むと、福山の詩人木下夕爾の<家々や菜の花いろの燈をともし>の句が思われた。この句集『紫木蓮』で第33回「蛇笏賞」を受賞。
自註によると、「洗足の大場白水郎邸でお花見句会が開かれ、たまたま上京中のこととて出席。最高点をとった」とある。真砂女は「春燈」に所属した後も、最初の師白水郎の句会へは参加していた。白水郎は宮田製作所の重鎮で万太郎とは府立三中(現都立両国高校)、慶應義塾で俳句を通じて生涯の朋友であった。ところでこの句は、花見疲れで帰宅しそのまま座り込んで帯を解いたとある。とすれば大場邸で偶々出来た句ではなく、自信作として持参した句であろう。昭和25年の「春燈」12月号の『座談会「春燈」この一年を顧みる』で、高橋鏡太郎は「情感のこもった句が印象に残っている」と絶賛した。
真砂女の運命は急転した。昭和30年4月15日、第一句集の『生簀籠』を上梓し、この受け取りに上京中、吉田屋旅館が全焼、泊り客の一人が焼死する大惨事が起きた。幸い隣家への延焼も、道一つ隔てた家族の住居も類焼を免れた。真砂女は自註で「火災の夜皆疲れて眠っている。私は眠れず、ひとり起き出したときこの句が出来た。心の余裕を見出して嬉しかった。この時再建できると確信した」とある。「亀鳴くや」の季語に49歳の真砂女の胆の太さが窺える。波乱の人生はさらに続く。
吉田屋全焼から一年後、真砂女の奮闘で吉田屋を再建、以前にも増して商売は繁盛した。しかし翌32年1月10日、娘可久子の出ている芝居見物で上京中、姉の家に呼び出されて「身一つで家を出るか、主人の看病をするか」の選択を迫られ、無一文で家を去り、文学座の娘の寮に同居する。幸い女将としての真砂女の資質を知る4人の理解者から200万円を借り受け、2か月後の3月30日に銀座一丁目の幸稲荷の路地に小料理屋「卯波」を開店する。51歳にして新たな人生が始まった。白い割烹着は自由に生きる道を選んだ証としての大好きな仕事着なのだ。
真砂女89歳。平成5年には「松屋銀座」の歳暮ポスターのモデルとなり、7年には句集『都鳥』で読売文学賞を受賞したりと充実した日々を送っている。しかし老いは感じている。安住敦62歳の句に<枯野鴉死よりも老を怖れけり>がある。敦は枯野鴉に自己の生を投影仮託した。真砂女は蜆汁に更なる自己の生の充実を願った。
真砂女自身も好きな境涯句で、高波に翻弄され見え隠れする小船を自身の人生と重ね合わせて詠嘆した。安住敦は<ひとの恋あはれにをはる卯浪かな>の自註で「鈴木真砂女がよく使う「卯浪」を借用してみたが真砂女のようにはいかない」と記している。「卯浪」の句としては当時、<この海の卯浪さへぎる岩もなく> <磯畑に豆育ちよき卯浪かな>や最晩年<生国は心に遠き卯波かな>とも詠んでいる。店の名も『卯波』とし、昭和36年上梓の第二句集も『卯浪』と名付けた。しかし生涯全7冊に及ぶ句集の2621句の中で、「卯浪」の句はこの一句のみ。平成7年春、この句碑が故郷の仁右衛門島に建立された。なお富士霊園の真砂女の墓誌にもこの句が刻まれている。
昭和30年4月15日吉田屋が全焼した。幸い自宅は無事で類焼もなかったが、焼け跡の片付け、警察の事情聴取、炊き出しの指示、被災者や従業員への対応、そして再建への金策等、全く経験したことの無い事態に一つ一つ対応しなければならなかった。老舗を誇った旅館は消え失せ、跡地の向こうに青々とした太平洋が見えた。桜は散り葉桜となっていた。再建の目途はまだ立っていなかったが、それでも真砂女は再建に向けて気丈に振舞った。
昭和38年5月の連休、前々からの約束もあり「女性俳句」の友人で大阪天神の森の三好潤子の家を訪ねていた。6日の夜10時、久保田万太郎の急逝を知らせる電話を受けた。新幹線の開業は翌年の秋のこと、東京へ直ぐに帰ることも出来ず、翌朝の飛行機で帰京し、福吉町の万太郎宅へ駆けつけた。昨晩眠れぬ床の中で、確かに久保田先生との永訣と思えるホトトギスの一声を耳にした。
「卯波」の暖簾は鴨川時代の第一句集『生簀籠』所収の卯浪の句からつけた名前である。ただ開店の際に字画で運を判定する人に見てもらったら「卯浪」より「卯波」にすれば、今にお客を断るほど繁盛すると言われて店の名前を決めたそうだ。季語の扱いに並外れていた真砂女は、商売柄からも殊の外季感を大事にした。その一つが「卯波」の四季の暖簾であった。白地の麻の暖簾に掛け替えて今日も溌溂とした笑顔で馴染み客を待つのであった。
昭和31年俳誌『椿』所収の句である。昭和28年、大場白水郎、鴨下晁湖、そして保坂文虹の三人で、俳句と随筆の『椿』を創刊。丁度真砂女の波乱な時期と重なる。掲句は吉田屋の再建がなり、営業を再開した一ヶ月後の五月新橋演舞場で花柳章太郎の「遊女夕霧」の舞台を観た後の句会に示した句である。真砂女が丙午であることを意識したのは何時頃か知らないが、最初の結婚の時に家族からは言われている。この『椿』の句会の七ヶ月後、真砂女が離郷することを考え合わす時、運命の予感めいたものを何かしら感じていたのかも知れない。
真砂女が30代の頃、女性に求められたものは、皇国伝統の婦道に則り、修身斉家の実を挙げることであった。この思想は戦後も長く存在し、真砂女自身も重々承知していた。しかし恋しき人への熱く滾る思いを止めることはどうしても出来なかった。真砂女が信じる女の道とは、一心不乱に恋の灯を明滅させる蛍の様に、一途に大好きな人を愛する事なのだ。「私は不倫協会の会長のような者だけど、思い続けた人は唯一人だけ」と、米寿を越えた真砂女が胸を張って口にした事を忘れない。「蛍」の季語は全句集中二番目に多い。
平成3年「卯波」の常連客で俳人の中原道夫氏の友人が経営する岩室温泉へ蛍見物に出かけた。弥彦山中の水音のする杉木立の間を無数の蛍が飛び交い、この世の様とは思われない光景に深く感動した。雄は雌を求めて飛び、やがて雌の待つ叢に明滅しながら身を沈ませる。過去の恋の思い出が、脳裏に浮かび上がって来たと自註する。掲句所収の『都鳥』で読売文学賞受賞。
真砂女61歳。店の借金も8年で完済し、暮しにも余裕が生まれ、何度か旅行にも出かけるようになった。真砂女は自註で「一途は恋ばかりではない。これは仕事に一途になっているときの人の美しさに打たれて詠んだものである」と記している。しかし真砂女の人生を知る者にとっては、真砂女自身の姿と重ね合わせてしまう。この句も真砂女が好きな句であったようで、昭和61年の春に初めて「卯波」を訪れた私に、自註句集を取出し、青インクの万年筆で裏表紙に掲句を書き識してくれた。
「吉田屋」の女将の頃は一年中着物で接客していた。長姉の急逝により両親の勧めを断れず、昭和十一年の春に姉の夫と気に染まぬ再婚をした。しかし一年後七歳年下の海軍士官三浦雄三と道ならぬ恋に走る。掲句は昭和二十九年作であるが、同年の俳誌「椿」には<朝顔や夫婦和もなく不和もなく>噓に馴れ嘘が上手の毛糸編む>の句が見られる。この句について真砂女は自註で、「人妻が恋をして幸せであるべき筈はない。このために何人かを苦しませ悲しませた。そして自分自身も相手も」とある。「羅」に真砂女の切ないまでの恋情が透けて見える。
「あなたが乞食をするんだったら、私も一緒に乞食になる」とまで言って昭和4年に最初の夫と結婚した。文鳥夫婦と言われるほど仲が良かった。しかし7年後、いかさま賭博で夫が失踪したため離婚し実家に戻された。それから何の音信もなく歳月だけが過ぎた。昭和45年、娘の可久子が内緒で奔走し、大阪の料亭で再会した。随筆『銀座に生きる』の中で、「文鳥夫婦の思いはひとかけらも残っていなかった。久しぶりに遠い親戚に逢った、それ以上の感情は湧かなかった」とある。ただ「ホー、ホー」と青葉木菟が啼いているのを確かに聞いたのだ。