万太郎の句鑑賞

福井拓也

久保田万太郎

1889年東京浅草生れ。俳人、小説家、劇作家。
1938年岸田國士、岩田豊雄らと劇団文学座を結成。
1946年1月から1963年5月まで『春燈』主宰。「家常生活に根ざした抒情的な即興詩」を唱導。1963年5月6日逝去。
1942年第4回菊池寛賞。
1947年芸術院会員。
1957年日本文化勲章、第8回読売文学賞。
句集『道芝』(1927年)、『ゆきげがは』(1936年)、『春燈抄』(1947年)、『流寓抄』(1958年)ほか。

今月の句

No.1

新參の身にあかあかと灯りけり

 西脇順三郎はポエジー(詩情)の本質を、人間が生きる有限の世界と、無限の世界との連結が生み出す「はかなさ」に確認した。これは俳句を理解する鍵でもある。
 たとえば掲句。新たに奉公人が姿を現すのは何も今年だけではない。昨年の春も、また来年の春もそうだろう。しかし「新參」の彼—今まさに「あかあか」と照らし出される落ち着かなさを感じている彼にとっては、一度きりのことだ。めぐりゆく季節のなかでただ一度の生を歩むこと。その不思議さが俳句を織りなしている。

これまでの鑑賞句

 西脇順三郎はポエジー(詩情)の本質を、人間が生きる有限の世界と、無限の世界との連結が生み出す「はかなさ」に確認した。これは俳句を理解する鍵でもある。
 たとえば掲句。新たに奉公人が姿を現すのは何も今年だけではない。昨年の春も、また来年の春もそうだろう。しかし「新參」の彼—今まさに「あかあか」と照らし出される落ち着かなさを感じている彼にとっては、一度きりのことだ。めぐりゆく季節のなかでただ一度の生を歩むこと。その不思議さが俳句を織りなしている。